多くの仕事 家計も厳しく 学生の助けや実家の援助
1980(昭和55)年8月1日、信州大学に赴任早々、羽田先生から壮大なライチョウ調査計画を聞きましたが、実際の調査は翌年の6月からでした。その前に、羽田先生から私にしてほしいと依頼されたさまざまな仕事がありました。
まず、翌年の5月には、「戸隠探鳥会」が30周年を迎えます。その記念行事として、卒業生から資金を集め、記念冊子の発行や戸隠に30周年記念碑の建立、さらにその記念式典とそれに続く祝賀会を戸隠で開くことが計画されていました。それらの仕事の事務を私がすることになりました。
また、羽田先生が代表を務める「信州鳥類生態研究グループ」は、長野県林務部からの依頼で、イヌワシ、チョウゲンボウ、ブッポウソウなど県内の貴重な鳥類を調査していました。私は、その結果を報告書にまとめ、印刷製本する仕事も任されました。
さらに、羽田先生の著作「野鳥の生活」の3編目となる「続々野鳥の生活」を出版するため、卒業生が執筆した原稿を取りまとめ、本にするまでを私が取り仕切ることになりました。
当時、大学内にはこうした教授の仕事は助手がやるものだという雰囲気がありました。羽田先生は、京都大学の川那部先生も助手の頃には、教授の宮地先生の著書「アユの生活」を代わりに執筆されたのだと言っていました。
ですので赴任早々から、当然のように羽田先生が私に振ってきたこれらの仕事に忙殺される日々が続きました。当時、研究室のゼミは週2回、授業が終わった夕方から行われていました。最初の頃は羽田先生もこのゼミに出席し、学生の指導をしていましたが、次第に私が任されるようになりました。ゼミは学生への連絡事項を伝える場でもありましたが、主には研究室の学生の卒論研究を指導していました。
朝から夜遅くまで、研究室にこもり仕事をしていると、学生がコーヒーを入れたからと言ってよく私の研究室に持ってきてくれました。学生と親しくなるにつれ、学生たちが私の仕事を手伝ってくれるようになりました。私の生活は、京都にいた頃の鳥を相手にしていた生活から、大学での学生を相手にした生活へと変わっていきました。
幸いこの頃、私が受け持っていた大学の授業は、理科専攻の学生を対象にした生物学実験のみで週1回でした。残りの生物学の授業は、羽田先生と隣の生理学研究室の入来先生の2人の教授がすべて行っていました。私は、持ち前の集中力と何でもこなす器用さには自信があり、研究室の学生の助けも得て、この頃の超多忙な仕事を何とかこなすことができました。
信大で助手になった翌年には次女が生まれました。大学での多くの仕事は何とかこなしたものの、その忙しさから子どもの世話を妻に任せることになり、家庭にその分しわ寄せがいきました。幼稚園児の長女と私の世話とで、妻は手いっぱい。勤めに出ることなどできない状態でした。国立大学の助手の給料は安く、京都にいた頃よりもわが家の家計は厳しくなりました。
就職したお祝いにと実家の長兄夫妻が軽自動車を買ってくれました。また、次女が生まれてからは、実家で取れた米や野菜の援助を受けるようになりました。実家からのこれらの援助はとても助かりました。この頃はまだ若く、体力や集中力があったため、この厳しい時期を乗り切ることができたのだと思います。
信大に戻ったら学位の主論文の内容をいくつもの論文にまとめ直し、学会誌に発表したいと考えていたのですが、それを実現することはかないませんでした。
その一方、羽田先生は私が来たことで仕事を私に任せ、空いた時間でもう一つの夢を実現しようとしていました。それは長野県各地に自然園をつくり、自然教育の普及を図ろうというものでした。
聞き書き・斉藤茂明(週刊長野)
2024年4月6日号掲載