一から学び直した生物学 院生の「三無主義」に驚く

「鳥ゼミ」の仲間とシギ、チドリの観察に行った名古屋港近くで(右端が私)

 京都大学理学部動物学教室大学院進学を決意した私は、試験科目の生物学と語学(英語)の勉強を信州大学4年生の夏から始めました。それと並行して卒業論文をまとめ、カワラヒワの繁殖生態と生活場所の季節変化に関する二つの論文を書き上げました。

 卒業に必要な科目で最も苦労したのが、「音楽教材研究」のバイエルを100番までピアノで弾く授業でした。それもクリアでき、小中高校の教員免許を取得して信大教育学部を卒業しました。

 卒業後の4月からは、京都大学動物学教室の研究生になる予定でした。大学院の試験問題の多くは大学の講義の中から出題されるため、大学の講義を受講できる研究生になるのが近道と京都大の先生に勧められました。

 ところが、京都に引っ越す直前、思いもかけないことが起きました。4月から信州大学教育学部の志賀施設に勤める予定だった同期の木内君が単位不足で卒業できなくなったのです。羽田先生から「彼の卒業まで代わりに勤めてほしい」と頼み込まれ、4月から私が勤めることになったのです。9月に木内君は卒業し、私は勤務から解放されましたが、大学院の試験はその直後。夏の間、涼しい志賀高原で勉強できたのですが、結果はまったく歯が立ちませんでした。信州大学では生物学の一部しか学んでいなかったことを思い知りました。1年遅れて翌年の4月から研究生になり、京都大学で生物学を一から学び直すことになりました。

 初めて受ける発生学、形態学、進化学といった講義はとても新鮮でした。当時、動物学教室の生態学研究室には、九州大学から赴任して間もない教授の森下先生、助教授の川那部先生、助手には村上先生と滝先生がいて、昆虫や哺乳類、魚、貝類など幅広く専門分野の先生がそろっていました。中でも、川那部先生は大学院修了から研究室を取り仕切っており、京都大学の動物学教室で学位を取った羽田先生とは親しい関係にありました。そのためか、毎週あった研究室のゼミに参加し、院生同様に研究室を利用させてもらいました。羽田先生から私の研究への熱い思いを聞いて、私に期待をかけてくれたと思います。

 英語にも苦労している私を見かねたのか、鳥の研究をしていた院生の大沢さんと私で、海外の鳥の論文を読む「鳥ゼミ」ができたのも川那部先生の配慮だったと思います。翌年からは、鳥の研究をしたいという長谷川君、須川君の2人が鳥ゼミに加わり、活動も活発になりました。

 研究室のゼミでは、多くの研究発表を聞き、私も信州大学でのカワラヒワの研究を発表しました。厳しい指摘を受けましたがそれも刺激になり、勉強の励みになりました。

 京都大学では幾つもの「カルチャーショック」を受けました。院生が先生を「さん」付けで呼ぶことにはびっくりしました。院生は立派な研究者で、「先生と立場は同じ」というのです。

 院生には「研究の指導がない・研究費はない・机はない」の「三無主義」にも驚きました。院生になると、自ら研究テーマを見つけて、研究費を工面し、研究を深めていくのです。そして論文にまとめた段階で初めて、先生の厳しい指導が入ります。幾つものカルチャーショックを経験しつつも、京都大学に漂うオープンな自主・自立の雰囲気が私の肌には合っていました。

 研究生時代は、家族から手厚い支援も受けました。朝、大学に行き、授業やゼミに出て、下宿に帰るのは夜。戻ってからも机に向かうという勉強漬けの日々でしたが、つらいとか苦しいとはまったく思いませんでした。それどころか、未知の世界にふれることは新鮮で、より一層研究への思いは高まりました。

 大学院の試験は3回目に合格し、2年間に及んだ受験勉強は終わりました。

聞き書き・斉藤茂明
(週刊長野)

2024年2月10日号掲載