ライチョウ調査を手伝う 回ってきた助手のポスト

鳥ゼミのメンバーで訪れた琵琶湖で(左から3人目が私)。ゼミには京大の学生も参加するようになっていました

 京都大学大学院で学位論文をまとめていた頃、研究室で雑談をしていると、信州大学の恩師・羽田先生から電話がありました。「6月下旬に3日間ライチョウ調査をするので手伝ってほしい」という内容の短い電話でした。京都に来てから私が羽田先生とお会いするのは、毎年12月に信大で開かれる「信州生態研究会」の研究発表の折くらいでした。羽田先生から私に直接電話が入るのは、めったにないことです。

 私は、この年のカワラヒワの繁殖調査をほぼ終えていたので手伝いに参加することにしましたが、羽田先生が私を調査に誘った理由は分かりませんでした。

 調査は、北アルプスの燕岳から大天井岳、槍ケ岳にかけての通称「表銀座コース」でのなわばり分布調査でした。参加したのは羽田先生と研究室の学生3人、そして私の計5人です。

 6月はライチョウの抱卵期です。登山道を歩きながらライチョウの発見に努め、糞や羽、砂浴び跡といった痕跡も探しました。岩の上で見張りをしている雄がいたらそこには縄張りがあり、雌が抱卵中と判断できます。また、抱卵している雌がする特別に大きな糞が見つかった場合にも同じことがいえます。こうした調査により、一つ一つのなわばりを確認していきました。この時の調査では多数のなわばりを確認でき、巣も二つ発見しました。

 こうした調査は、学生の時に羽田先生と一緒に白馬岳で行った経験がありました。久しぶりの山登りで、長野に来たと実感しました。

 この調査で槍ケ岳山荘に泊った時、酒を飲みながら羽田先生からカワラヒワの研究や学位論文の進み具合などを聞かれ、早く論文にまとめるように言われました。この時、羽田先生が私を調査に誘った真意がなんとなく見えてきました。京都で平地の鳥ばかりを研究していた私が、高山に生息するライチョウを調査できるのかを山で確かめたかったのだと思います。

 その1年半後、羽田先生からまた連絡がありました。研究室で助手のポストが取れたので、公募に応募してほしいという内容でした。書類を提出後、面接を受け、翌年(1980年)の8月1日付けで、私は出身の信大教育学部理科生物の助手になりました。

 長野での住まいは、羽田先生が市内にある公務員宿舎を確保してくれていました。引っ越しも一段落し、大学でのあいさつ回りもほぼ終えた頃、羽田先生の部屋で今後のライチョウ調査計画を聞くことになりました。

 机の上に何枚もの地図が広げられ、そこには、これまで調査を終えた山岳のなわばり分布が書き込まれていました。「退官までの5年間に、わしの最後の仕事として、全山の調査を終えたい。北アルプスのほぼ半分は終えたが、南アルプスはほとんど手付かずの状態。残りの調査を手伝ってほしい」と言われました。

 これを聞いて約2年前、京都にいた私をライチョウ調査に誘った真意がはっきりしました。理科で助手のポストが次に空いたら、順番で次は生物でとれることが決まった2年前の段階で、先生はこの大きな計画を立てていたのです。残り5年で全山の調査を終えられるだろうか。途方もない計画に思えました。

 私は京大で学位論文を執筆していた時から、次の研究テーマは、カッコウの托卵と決めていたのです。

 きっかけは、四条河原町の本屋で見つけた「The Cuckoo」という本との出合いです。英国の鳥学者、イアン・ワイリー氏の新刊書でした。3日間かけてこの本を読み、カッコウの托卵行動は極めて興味深いが、この鳥の生態はまだほとんど未解明であることを知ったからでした。次はカッコウの托卵を研究しようと決心していたのに、ライチョウ調査に時間を取られたらカッコウの研究はできるだろうか。大きな不安がよぎりました。

 聞き書き・斉藤茂明(週刊長野)

2024年3月30日号掲載