鳥の研究に打ち込む転機 卒論はカワラヒワ研究に
私が信州大学に入学した1965(昭和40)年当時は、現在のように1年生は松本キャンパスで一般教養を学ぶ体制ではなく、1年次から学部の研究室に入ることになっていました。
入学早々に所属することになった羽田健三先生の研究室では、毎年5月に戸隠探鳥会を開催していました。この探鳥会で、私は戸隠の自然にすっかり魅せられました。戸隠山の素晴らしい景観とその裾野に広がる太古からの見事な森。そこには初めて見る鳥もたくさんいました。戸隠の豊かな自然にふれ、考古学と同じようにフィールドワークが中心の鳥の研究も面白そうだと思うようになりました。
研究室で鳥や植物を覚える一方、いろいろなことに挑戦したいという思いがあり、ワンダーフォーゲルや軟式テニスのサークルにも参加しました。入学して下宿生活を始めると時間ができ、研究室の外にも活動の場を求めたのです。
そんな1年生も終わりに近づいた3月初め。研究室で同期の秋山君と飲みに行った席で、彼が私に言った言葉が忘れられません。「中村君、いつまでもふらふら遊んでいていいのか。研究に真剣に向き合うべきではないか」。この言葉は私の心を揺さぶりました。サークル活動は楽しかったのですが、何か物足りなさも感じていたからです。
その2週間後、志賀高原にある信州大学の自然教育研究施設で研究室の合宿があり、そこに泊まった夜のことでした。心臓に持病を抱えていた秋山君が急死したのです。大きなショックを受けた私は、彼が私にかけてくれた言葉は、私への「遺言」だと思えました。2年生になり、サークル活動はすべてやめ、鳥の研究に打ち込むことにしました。
羽田研究室では、学生の一人一人が調査する鳥の種類を決め、その鳥が雌雄でどのように仕事を分担し、巣を作り、産んだ卵を温め、ふ化した雛を育てるかといった繁殖生態を卒論研究のテーマにしていました。1、2年生は先輩を手伝いながら研究の仕方などを学び、3年生から自分の研究テーマに取り組むことになっていました。
しかし、私が2年生になった年から教育実習の期間が延び、それが鳥の繁殖期と重なって研究に支障がでるため、2年次からテーマを決めて3年間かけて調査し、卒論研究をまとめることになりました。私は、まだ研究されていない鳥の中からカワラヒワを選びました。子どもの頃に捕らえて飼ったことがあるなじみの鳥でした。カワラヒワの調査地として選んだのが、坂城の実家から自転車で20分の上田市塩尻の中島村落を中心とした地域。たくさんのカワラヒワが繁殖していることを、研究室の先輩の母袋さんが教えてくれました。
2年生からは、坂城の実家から大学に通い、土日など休みの日は、カワラヒワの調査をする生活になりました。4月から6月の繁殖期には、夜明けに起きて2時間ほど調査をした後、西上田駅から長野市の大学に通うこともありました。調査を開始して2年目の3年生で必要なデータを取り終えました。
3年生では、和光大学の浦本昌紀先生の著作「鳥類の生活」との出合いがありました。本では、英国オックスフォード大学のシジュウカラの研究として、ロンドンの市街地にあるワイタムの森にすむ個体に足環を付け、個体識別ができるようにして、数十年にわたり追跡調査をする様子を紹介していました。それにより鳥の寿命、定住性、つがい関係など、今まで知られていなかった鳥のさまざまな生態が見えてくることを知りました。特定の個体の行動を観察する研究から、集団を研究対象として、長い時間をかけて追跡調査する手法へと、世界では鳥の研究が大きく転換していたのです。
私は、この個体識別による研究手法に大いに刺激を受けました。3年生の夏以降、調査地内のカワラヒワを年間通して追跡調査する、新しいテーマの研究に挑戦することになったのです。
聞き書き・斉藤茂明
(週刊長野)
2024年1月27日号掲載