京都での研究が本格化 未発表の研究を論文に

妻と訪れた伏見城の紅雪池(こうせついけ)(撮影は宮内庁職員)

 結婚を契機に私の生活は大きく変わりました。修士課程の2年間は啓光学園で生物の非常勤講師をしていていたほか、2年目からは大阪にある夕陽丘予備校で生物を教えるアルバイトもしていました。

 結婚し、博士課程に進学してからは、アルバイトはすべて辞めました。奨学金は月額7万円に増え、妻は新居近くの病院で医療事務の仕事を始めたので、その収入もありました。実家からの仕送りも続いていたので、私はアルバイトをせずに研究に集中できるようになりました。

 修士課程の2年間は、京都でのカワラヒワ研究のいわば準備期間でした。長野とは調査地の環境が異なり、最初は戸惑いましたが、次第に慣れてきました。カワラヒワに足輪を付けて個体識別ができるようになると、大学でのゼミや講義以外の時間は、朝から夕方までほぼ毎日調査に専念する生活になりました。私の京都での研究は結婚してから本格的に始まったのです。

 結婚したばかりの頃は、時間に余裕があり、休日には2人で桃山御陵を訪れました。ここは、かつて豊臣秀吉が築いた伏見城の本丸があった場所です。地震で城が崩れた後、大阪城に移るまでの短い期間ですが、ここから天下に号令が発せられた場所です。今は森に覆われていますが、城の跡は色濃くとどめていました。

 一般の人の入場は御陵の参道まででしたが、私は調査のため、明治天皇の陵墓がある一画以外は入ることができました。御陵を管理する宮内庁職員とも親しくなり、私たちにとっては家の庭のような場所になりました。高校時代、考古学に熱中していた私にとっては、誰もいない広大な敷地の中を2人で散策し、当時の城内のにぎわいを想像することは、この上ないぜいたくな時間でした。

 4月になると筍(たけのこ)が採れました。職員の方が食用に収穫した一部を分けてくれたのをきっかけに、調査の帰りに採って家に持ち帰りました。伸びた筍はなたで切り倒されていました。持ち帰った筍を大学にも持っていくこともありました。この時期、琵琶湖で取れるホンモロコという魚と御陵の筍を食べる会が研究室で始まり、私が京都大学を去るまで春の恒例行事となりました。

 話を結婚前に戻します。修士課程でもう一つ取り組んだことがあります。信州大学時代のカワラヒワの研究で、未発表の研究を論文にすることでした。信大で卒論としてまとめた二つの論文は、京大大学院に入学する前に発表していました。

 最初の論文は、「カワラヒワの生活場所の季節変化に関する研究」。信大医学部の中村登流先生の指導でまとめたこの論文は、卒業した年に、山階鳥類研究所刊行の「山階鳥研報」に掲載されました。翌年には、この論文が日本鳥学会の奨学賞を受賞し、当時大学院を目指していた私には大きな励みになりました。

 二つ目の論文は「カワラヒワの繁殖生態に関する研究」で、これは日本鳥学会誌の「鳥」に羽田先生との連名で発表しました。

 未発表だった研究は、冬に千曲川にいるカワラヒワの群れが、春につがいごとに分散して繁殖に入り、繁殖が終わると再び河原に集まる、1年間の動きを個体識別して追跡したものです。私が最も論文にしたかった研究で、指導教官の川那部先生からは結婚前に提出するように言われていました。提出した論文は修正を指示する赤ペンで真っ赤になって返ってきました。以前、研究室のゼミで発表した時に指摘された点を反映させてまとめていただけに、大きなショックを受けました。その後も、提出しては書き直しを何度も繰り返して1年後にようやく論文を完成させることができました。信大での羽田先生と中村先生の論文指導ではなかった、とても厳しいものでした。

聞き書き・斉藤茂明
(週刊長野)

2024年2月24日号掲載