恩師の「処世術」に違和感 学内の人間関係煩わしく
助手として羽田先生の仕事を手伝うとともに、私は羽田先生から信州大学での「処世術」も教え込まれました。
8月に助手就任早々、理科の先生一人一人に手土産を持参してあいさつに行くように言われました。先生ごとに手土産の値段や好きな品物を教えられて、用意しました。羽田先生と並んで生物のもう一人の教授入来先生には、妻同伴で自宅にあいさつに行くようにとの指示がありました。
大学での服装についても、大学の先生たるもの白いワイシャツに背広、そしてネクタイを常に身に着けるように言われました。羽田先生は大学ではいつも背広を着込み、大きな存在感を誇り、まさに「大学教授」といった威厳がありました。
羽田先生自身が長年習慣としていた、信大での振る舞い方・生き方の「王道」を私に教えようとしたのです。恩師である羽田先生の指示にはできるだけ従いましたが、なじめないものもありました。休みの日ならいいだろうと普段着で大学に行ったら、別の教授に羽田先生と同じように注意されたこともありました。
京都大学大学院の指導教官だった川那部先生は、はかま姿でよく教壇に立っていました。また、真っ赤なスポーツカーで大学に乗りつける教授もいました。京大では、教育や研究以外では個人の価値観に任せる自由な雰囲気があり、私はそれが肌に合い、どっぷりとつかっていたのです。
研究室で学生たちと分け隔てなく楽しくしていたり、授業で学生たちを学外に連れて行ったりした時、学生たちと親しく行動する私の姿を頼りなく思ったのか、羽田先生から「お前はいつまでたっても学生気分が抜けない」と何度も注意されたことがありました。大学の先生としての貫禄がなかった私を恩師として心配してくれたのですが、私には羽田先生のように学生に対して振る舞うことには抵抗がありました。
大学では毎月1度、教授のほか、助教授、講師、助手も含め、大学の教官全員が参加する教授会がありました。羽田先生からは、教授会には必ず出ること、出ても発言は控えるようにとの指導もありました。その通りにしましたが、その教授会で、信大の学生の時には知ることができなかった学内のさまざまな内面を知ることになりました。
当時の信大教育学部には、米国海軍の第七艦隊に例えた「理科第七艦隊」と呼ばれる実力者7人がいました。頂点は当時の学部長で、その学部長を支えていたのが羽田先生を筆頭にした理科の教授たち。教授会で、教科間での対立があることを知りました。
体育科の教授が「未成年の学生に酒を飲ませていると聞いているが、いかがなものか」と発言したことがありました。それを自分に対しての発言と受け止めた羽田先生は、酒の飲み方を教えるのも教育と反論しました。学生の中には未成年者もいます。学生と酒を飲む席で一部の学生に、酒を飲んではいけないとは言えない。だから、その機会に酒の飲み方をしっかり教えるべきというのです。この発言に異を唱える教官は誰もいませんでした。
教育学部なので、文科系や芸術系の教官もいます。そんな中で一つのことを決めるにも時間がかかることもあります。冬に教授会が紛糾し長引くと、天井裏に冬眠していたコウモリが目を覚まし、教授会室の中を飛び回ることが何度かありました。私の教授会での役割は、飛び回るコウモリを捕まえることでした。また、学内には出身大学などによる派閥があり、羽田先生の助手というだけで、私を敬遠する教官もいました。
そんな学内の人間関係は、私には次第に煩わしく思えてきました。羽田先生と私は価値観が違うのではないか。後継者として信大での振る舞い方・生き方の「王道」を私に教えようとした試みは、結局うまくいきませんでした。
聞き書き・斉藤茂明(週刊長野)
2024年4月13日号掲載