山で縄張りを数えるだけ 当時は研究の意欲湧かず

助手の頃の北アルプスでの臨地実習(前列左から2人目が私)

 信州大学に赴任した翌年の1981(昭和56)年6月、ライチョウ調査が始まりました。最初の調査地は南アルプスの白根三山でした。参加したのは、私と研究生の小岩井さん、学生2人の計4人。小岩井さんは、筑波大学の山岳部出身で、卒業後、信大の研究生になりました。

 6月14日の朝に長野をたち、山梨・甲府から登山口となる広河原(ひろがわら)に入り、この日は白根御池(おいけ)小屋に泊りました。翌早朝に、小屋をたち、草スベリの急坂を登り、高山帯に出た所で、いきなり霧の中からライチョウの争う声が聞こえてきました。登り切った小太郎尾根(こたろうおね)一帯でも多数の個体を発見しました。この日、小太郎尾根から北岳一帯で、31羽の雄と8羽の雌を発見し、33の縄張りを確認しました。

 その日は北岳山荘に泊まり、翌朝からは中白根岳から間ノ岳(あいのだけ)にかけての一帯を調査し、3日目は農鳥小屋(のうとりごや)の冬期小屋に泊まりました。農鳥小屋に3泊し、農鳥岳南の大籠岳(おおかごだけ)まで調査し、6月20日に大門沢(だいもんざわ)を下りて奈良田温泉に出て、6日間の調査を終えました。

 この間、北の小太郎山から南の大籠山までの白根三山一帯で確認した縄張り数はちょうど100。それまで南アルプスで調査されたのは仙丈岳のみで、南アルプスにどのくらい生息するかは不明でしたが、北アルプスの白馬岳周辺に匹敵する数のライチョウの生息が確認できました。

 この白根三山の後には、北アルプスの杓子岳から天狗の頭にかけての白馬岳南部の調査、さらに御嶽山の調査を実施しました。このように年に数回の調査が羽田先生の退官前年まで続けられ、計画した全山のライチョウ調査を終えることができました。

 信大助手の5年間は、ライチョウとカッコウの調査の両立に悩みました。カッコウは5月中旬に南から渡ってくる夏鳥です。本格的な調査は6月に入ると始まりますが、ちょうど同じ頃にライチョウも調査時期を迎えます。

 私は30歳を過ぎてから本格的な山登りを経験し、山の魅力を感じるようになりましたが、ライチョウ調査には、次第に魅力を感じなくなりました。山に登り、大変な思いをし、時には命の危険さえ感じる調査ですが、やることはライチョウの縄張りを数えるだけの単純なものです。こうした調査にどんな意義があるのか。当時の私には分かりませんでした。

 1回のライチョウ調査で、3日間から1週間ほど山に登ります。その間、カッコウの研究は中断せざるを得ません。早くライチョウ調査を済ませて山を下り、カッコウの調査をしたいと思うようになりました。

 羽田先生の退官前年の秋、信大教育学部で「日本生態学会」大会が開かれました。羽田先生は、20年以上かけた調査で明らかになった本州中部のライチョウの分布山岳と山ごとの縄張り数を基に、日本に生息するライチョウの数は3千羽弱であると発表されました。

 この学会の準備から開催までを取り仕切った私は、学会が終わり、羽田先生から任された大きな仕事をやり切ったという充実感がありました。しかし、ライチョウ調査を今後も続けるつもりはまったくありませんでした。これでようやく、カッコウの研究を思う存分できる—。そう思うと、うれしくなりました。

 今振り返ると、羽田先生は後継者の私に「ライチョウのことはよろしく頼む」と、言いたかったはずです。しかし、羽田先生は何も言いませんでした。私の態度から察したのだと思います。

 人生は分からないものです。私は50歳を過ぎてライチョウ調査を再開して初めて、羽田先生が20年かけた調査の価値が理解できたのです。当時の羽田先生と同じ年になり、先生のライチョウに対する思いが、ようやく私に通じたのです。

 聞き書き・斉藤茂明(週刊長野)

2024年4月20日号掲載