学会100周年事業に着手国際鳥学会の誘致に奔走

2004年、乗鞍岳で足輪を付けて個体識別によるライチョウの調査が始まった日本鳥学会100周年記念誌(左)と一般向けに刊行した本

 私は、2002年から日本鳥学会の副会長を務め、06年、第14代会長に選ばれました。それから2期4年間、会長を務めました。

 日本鳥学会が12年に創立100周年を迎えるのに向けて、会長の私は主に三つのことに着手しました。

 一つ目は、「日本鳥学会100年の歴史」をまとめ、日本鳥学会誌に特集号として掲載し、本にすることです。そのための編集委員会を発足させました。

 二つ目は、「日本鳥類目録・改訂7版」の刊行です。
6版が出てから12年が経過し、その間、遺伝子解析技術の普及により、日本に生息する鳥類の中には分類を見直す必要のある種が出てきました。また、鳥の撮影技術の進歩により新しく記録された種が増えたことなどから、改定版の必要性に迫られていました。6年後の100周年に合わせ、改訂版を出版する準備委員会が発足しました。

 三つ目は、14年の「第26回国際鳥学会」の日本誘致で、私が最も力を入れたことです。何度も国際鳥学会の日本誘致の話はありましたが、その都度立ち消えになっていました。

 国際鳥学会の大会は4年ごとの開催。10年はブラジルで開かれ、そこで次の開催地が決まります。4年後の日本初の開催を目指した招致委員会が設置されました。

 私は国際鳥学会の役員も務めており、その役員会がブラジル大会の前に開催された関係で、大会の10日前からブラジルを訪れました。カッコウの研究と、その後のライチョウの研究で知り合った何人かが役員で、そうした人に次の日本招致を働きかけました。また、大会中も精力的に多くの参加者に日本招致を働きかけました。そのかいあって、日本と共に次回開催に立候補したメキシコとの選挙に接戦で勝ち、14年の日本開催が決まりました。

 ブラジルから20日間ぶりに日本に帰国。その数日後、私は自宅で倒れました。意識不明が3日間ほど続きました。意識が回復し、救急車で長野市民病院に運ばれたと聞いても、記憶がまったくありません。その病院がどこにあるかも知りませんでした。

 ブラジル滞在中のハードな招致活動で無理がたたり、体力を消耗し、免疫力が落ちたところに、現地のウイルスに感染、一時的に脳が侵されたとのことでした。いくつか投与された抗生物質のどれかが効き、10日後に退院しました。

 私は、やると決めたらとことんやる性格です。だからこそ、カッコウの托卵研究で世界トップの研究を成し遂げ、国際鳥学会の日本初招致の中心となり、引っ張り、実現することができました。しかし今回は、その性格が裏目に出ました。

 4年後の14年、日本で初の国際鳥学会が東京で開催されました。すでに会長を退いていましたが、100周年記念事業実行委員長として100周年の準備を進めました。予定通り、国際鳥学会開催までに「日本鳥学会100年の歴史」を出版し、「日本鳥類目録・改訂7版」を刊行できました。

 国際鳥学会の開催期間中、外国の研究者と共に、東京大学の安田講堂で日本鳥学会100周年記念式典を開きました。その際、私が「日本鳥学会100年の歴史」と題した記念講演を行いました。学会が鳥類研究で果たした功績のほか、希少野生動物の保護や、絶滅の危機にあった鳥を守ったことなどにふれ、日本鳥学会の歴史と成果を世界に発信する素晴らしいチャンスになりました。

 日本鳥学会の国際化にも貢献でき、会長として大きな仕事を成し遂げたと実感しました。

 聞き書き・斉藤茂明(週刊長野)

2024年6月 22日号掲載