自然の中で遊んだ原体験 後の鳥の研究に役立つ

 私は1947(昭和22)年、埴科郡坂城町で、父・仲夫、母・正枝の男ばかりの4人兄弟の三男として生まれました。リンゴ農家で、ほかに野菜やコメを作っていました。

 小学校入学前は夏になると両親と兄弟で新潟県の柏崎に海水浴に出かけるのが恒例でした。当時のことで真っ先に思い出すのは海で泳いだことではありません。柏崎で買った貝で、家族全員が食中毒になってしまったことです。帰りの汽車の中に貝を長時間置きっ放しにしたため腐敗が進んでいることに気付かずに食べてしまったためでした。

 父との思い出で印象深いのは、手で魚を捕まえる方法を教えてもらったことです。父はよく近くの川に私を連れて行き、岸に魚を追い込むようにして手でつかむこつを教えてくれました。コイやフナ、ナマズ、その頃はウナギもいました。軽々と魚を手づかみしてみせる父を「すごいなあ」と思っていました。村ではリーダー的な存在として近所の人から慕われていた父を私は知っていたので、その姿は余計に大きく見えました。

家の縁側で兄弟といとこ(右から2番目が私)

 田植えの時期になると、千曲川から小さな用水路にこれらの魚が産卵のためにあがってきます。大きなナマズを追いかけ、ずぶ濡れになってナマズに抱きついて捕まえたこともありました。

 両親は子どもたちには放任主義で、「勉強しろ」と言われた記憶は一度もありませんでした。自分の部屋も勉強机もなく、宿題をするのは騒々しい居間の大きなテーブル。私は勉強より友達との遊びに夢中で、小学4年生の頃、通知表が全科目5段階の3だったことがありました。これには放任主義だった母もあきれていました。

 坂城町の南条小学校で、近所の友達を率いる「ガキ大将」だった私は放課後になると友達と夕方まで、夢中になって遊びました。

 子どもの頃の思い出といえば、山や川で遊んだ記憶ばかり。千曲川では魚とりのほか、冬になるとよくたき火をしました。寒風が吹く中、たき火の回りは暖かく、特別な空間でした。春にはワラビ採り、秋にはキノコ採りと、近くの山にもよく出かけました。今思うと、とてもぜいたくな時間だったと思います。

 家の近くの酒玉(さかたま)神社も絶好の遊び場でした。夕暮れまで野球や木登りをしていました。その神社の境内は、ケヤキの大木が茂る鎮守の森でした。ある時、遊んでいると、フクロウ類のアオバズクが木の上から私たちを見下ろしていました。私は手作りの弓で矢を射ると、見事に命中。木から落ちたアオバズクをみんなで探しました。

 籠で鳥を捕まえたこともあります。餌をまき、鳥が寄ってきた瞬間を狙ってひもを引き、籠で捕まえます。捕まえた鳥を飼ったこともあります。小鳥の巣を見つけ、ひなを家に持ってきて育てたこともありました。かわいいと思って飼うのですが、数日すると死んでしまいました。死んだひなを見て、悲しい思いを何度もしました。

 当時、鳥を捕まえることは子どもたちの遊びの一つでした。鳥を捕まえたり、野球をして遊んだこの神社は今、昔のような鎮守の森の姿はありません。古くなった神社を建て替える費用のためケヤキの大木は切り倒されてしまいました。今、子どもたちの歓声を聞くことはなく、私にとって大切な「風景」の一つが消えてしまい、とても残念です。

 子どもの頃に神社の境内で遊んだことや、千曲川などの豊かな自然の中で遊んだ原体験が、後の私の鳥の研究に役立つ、とても大事なことだったと気が付くのは、ずっと先のことです。

聞き書き・斉藤茂明
(週刊長野)

2024年1月13日号掲載